横浜のメリーさん
皆さんは「横浜のメリー」さんをご存知だろうか?
彼女はかつて、横浜で売春婦として活動した、、、
だが、彼女の本当の名前は誰も知らない。
横浜の街中でたたずんでいるのでいつしか彼女のことを「横浜のメリーさん」と呼ぶようになったんだとか。
彼女はかつて、横浜で「街娼」として名を知らしめた女性です。
彼女の存在は、横浜の風景の一部として記憶に残るまでにもなりました。
彼女は70歳を過ぎても、街中に立ち続け、いつしか町から消えてしまいました。
「街娼」と言うのは、待ちゆく男性に声をかけて、「私と遊んでいかない?」と売春行為を持ちかける売春婦のこと。
いわゆる、今でいう「立ちんぼ」という言葉に置き換えることが出来るかもしれない。
かつて日本では戦後の混乱期に生活のために、売春を行う女性がたくさんいました。
政府がその「売春行為」を仕事として認める「公娼制度」があったほどです。
しかし、戦後の日本をGHQがこの「公娼制度」を廃止したことで「街娼」が町に溢れました。
このころ、メリーさんは、大阪、神戸などで、街娼をしていたとされています。
もしかすると、飛田新地や、松島新地などで働いていたのかもしれません。
そこで、アメリカ軍人と出会ったメリーさんは、上京し米軍基地の周辺で生活をされました。
朝鮮戦争が勃発すると、その軍人は朝鮮半島に出兵し、停戦後には行方が分からなくなったと言います。
その後、メリーさんは拠点を横浜に移し、街娼として活動をしていきます。
ただ、メリーさんは、「誰かれ構わず、売春行為をしていた」わけではなく、「軍人」「高貴な人」とのみ行為を重ねたと言います。
いつしか、「メリーさんから声を掛けられることが名誉なこと」とさえ言われるほどになったそうです。
年を重ねるにつれて、売春婦としての活動が出来なくなり、いつしかメリーさんは顔を白粉で塗るようになったそうです。
なぜ、白粉を塗るようになったのか・・・その理由は今となっては知るすべはありません。
戦後の混乱期の街娼の悲哀を伝えるためだったのでしょうか?
その姿は、横浜の風景の一部となり、横浜の市民は、「街娼」であるメリーさんを排除することもなく、温かく寄り添ったのです。
1995年(メリーさん75歳)ごろになると、いつしかメリーさんの姿を見かけることは無くなったのですが、その晩年は親族と故郷岡山の老人介護施設で過ごしたと言います。
2005年メリーさんはご永眠されました。85歳だったそうです。
街の風景となり、市民が寄り添った存在のメリーさん。
素性が全く分からず、ミステリアスな存在。
飛田新地や松島新地、信太山新地の「誰かれ構わずセックスする」。
病的に感じられてしまうのは。、、、なぜだろうか?
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